天地自然の道理を探求することは、
人情や世間の事情に比べて容易である。
人情や世間の事情は、難しい。 私たちは、簡単なことに慣れて満足し、
難しいことを怠けてはならない。
佐久間象山の『省諐録』を読んでいると、
しばしば、自分の姿勢を静かに問い返される。
この一節も、その一つだ。
知ることと、向き合うこと
自然の法則や理屈を学ぶことは、確かに難しい。
だが象山は、それ以上に
人情や世間の事情のほうが、はるかに難しい
と言う。
人の感情。
立場の違い。
空気や沈黙。
言葉にされない意図。
これらは、公式や理論のように整理できない。
正解も、すぐには見えない。
それでも私たちは、
扱いやすいほうへ流れがちになる。
簡単なほうへ逃げる習慣
本を読む。
理屈を語る。
概念を理解したつもりになる。
それ自体は、決して無意味ではない。
しかし象山が問題にしているのは、
そこに留まり続けることだ。
人と正面から向き合うこと。
誤解を解くこと。
自分の未熟さを認めること。
これらは、疲れる。
成果も見えにくい。
だから後回しにされやすい。
象山は、そこを見逃さない。
怠けるとは、何か
「怠ける」という言葉は、
何もしないことを指すのではない。
象山が言う怠慢とは、
向き合うべき難しさを避け続けることだ。
人情を理解しようとしない。
世間の複雑さを引き受けない。
自分の都合のよい理屈に逃げる。
それは静かで、
一見、真面目にも見える。
だが修身の観点から見れば、
最も警戒すべき姿勢なのだろう。
修身とは、難しいほうを選ぶこと
象山の言葉は、
努力を煽るものではない。
「もっと頑張れ」とは言わない。
ただ、こう問いかけている。
いま、簡単なほうに慣れていないか。
本当に向き合うべきことから、目を逸らしていないか。
修身とは、
自分を飾ることではなく、
逃げない位置に立ち続けることなのかもしれない。
おわりに
『省諐録』は、
他人を裁くための書ではない。
一人の知識人が、
自分自身の怠慢と向き合い続けた記録だ。
この一節もまた、
読む者に静かに問いを残す。
私たちは今、
簡単なことに慣れて満足していないだろうか。
※ 本文は
佐久間象山『省諐録』第三条より抜粋・編集
(Kindle版にて全文収録)







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